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「あの母が…」桐島家に立ちはだかった突然の介護問題。ローランドさんが「しておきたかった」と悔やんだこととは
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人口の約3割が70歳以上と高齢化が加速する日本。親の介護は、誰もが避けられない問題となっています。しかし、実際に自分の身に起こってみないと、なかなか現実的な問題として考えられないのが本音のところでしょう。それは、作家・桐島洋子さんを母に持つ桐島かれんさん、ノエルさん、ローランドさん姉弟にとっても同様でした。
桐島洋子さんは『マザーグースと三匹の子豚たち』『聡明な女は料理がうまい』など、数々の名著を世に送り出した作家であると同時に、未婚の母として3人の子を育て、自立した女性の象徴的な存在としても知られています。そんな桐島洋子さんが、いまから8年ほど前、アルツハイマー型認知症を発症。姉弟3人の前に、「親の介護問題」が唐突に立ちはだかります。
はたして3人は、桐島洋子さんの病気や介護問題に対して、どのような思いを抱え、向き合っているのでしょうか。今回は末弟の桐島ローランドさんに、介護問題についての考えを自らの体験を交えつつ、お話いただきました。
- コラムサマリ
- 突然の発症を受けて、しばらくパニックに
- 本人の意向が読めない中、姉弟3人に訪れた人生の変化
- どこまで介護できるのか。どこから施設も含めたサポートを頼むのか
- 資産の整理や相続で発生した大きな問題
- 介護も資産運用も、事前の準備や学び、経験が大切
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突然の発症を受けて、しばらくパニックに
2022年6月に出版された『ペガサスの記憶』(小学館)で、お母様の桐島洋子さんがアルツハイマー型認知症を発症していることを公表されました。お母さまがご病気であることを、どうやって知ったのですか?
いつ母が発症したのかは定かではないのですが、姉・かれんの50歳の誕生日に合わせて海外旅行に行っていたとき、以前とは母の様子が違うことに姉が気づいたんです。たとえば、ホテルの部屋に自分では戻れなくなる、なんてことがありまして。長時間一緒にいると以前と様子が違うことに気づき、帰国後に姉が病院に連れて行きました。そこでアルツハイマー型認知症であることがわかりました。
ローランドさんご自身は、お母様の変調を感じられていたのですか?
当時3ヵ月に一度くらい母に会っていたのですが、姉と違って何日も一緒に過ごすことはなかったですし、気づくことができませんでした。確かに、以前と比べて少し言葉が出てこないというのはあったかもしれませんが、“老い”によるものだろうという認識でした。実はこのころから、記憶のスパンが短くなっていたのでした。
その後は治療の効果もあって、多少は進行がスローダウンした感じです。ただ、いまも15分も一緒にいると、様子がおかしいことに気づきます。古い記憶や過去の思い出などはすべて覚えていますし、旧知の方々の顔も覚えているのですが、いま起きたことはすぐに忘れてしまうんです。
日常会話に問題はありません。しかし、記憶のサイクルが15分で一巡してしまって、15分経つといま自分がどこにいるのかわからなくなり、混乱してしまう。それも、丁寧に説明すれば落ち着きますが。
とはいえ、世の中でアルツハイマー型認知症にイメージされているような、食事やお風呂、トイレの介助などが必要な段階ではありません。ただ、今後病状が進めば、それらが必要になる可能性はもちろんあるでしょう。
ご病気が発覚した時、どのように思われましたか?
母は本当に聡明で、何かわからないことがあっても、母に質問すればすぐに答えが返ってくる人でした。僕たち3人は母のことを「歩く百科事典」などと呼んでいて(笑)。母との会話でいろいろ学ぶことができましたし、僕にとって母とのやり取りは楽しい時間でした。
ですから、アルツハイマー型認知症と診断されたことは、まさに青天の霹靂でしたね。途中で何を話しているのか、本人がわからなくなるわけですから。母がそのような病気になるなんて、まったく想像していませんでしたし、信じたくありませんでした。
この気持ちは、2人の姉も同じだと思います。この先どうしよう、どうなっていくんだろうという思いが頭の中を駆け巡り、戸惑いを隠せませんでした。
この病気を調べてみると、発症すると余命が5年とも8年ともいわれていることがわかり、しばらくパニックになりましたね。
本人の意向が読めない中、姉弟3人に訪れた人生の変化
病気が発覚したとき、ご姉弟でどのような話をされましたか?
最初は3人とも想像もしていなかった母の病状を知り、かなりショックを受けましたが、いつまでもそのような状態でいるわけにもいきません。家族会議を開いて、これから誰がどのように面倒を見るべきなのかを話し合いました。ときには激しい言い合いになってしまったこともありましたね。
発症後、3人の中ではカナダでヨガ教室を経営している姉のノエルが、僕やかれんと比べて時間の融通が利くということもあり、母とカナダで1年ほど一緒に住むことになりました。
しかし、僕の目から見て元気だった母も、その頃は精神的にかなり不安定だったようで、ノエルがすごく疲弊してしまって。ノエルは以前のような母の姿が失われていくプロセスを、姉弟の中で一番間近で見てきたので、精神的にすごくつらかったでしょうね。
やはり住み慣れた日本で生活したほうが母にとってもノエルにとってもいい、ということになり、2人ともカナダから日本へ帰国して、鎌倉でノエルは母の介護を続けました。
帰ってきたとき、母は変わらず元気だし、僕はもともとポジティブというか楽観的なところがあるので、ノエルが言うような「そんなに一緒にいてつらいものなのかな」と思ってしまったときもありました。いま考えてみると、ノエルがそんな楽観的なことを言う僕に対して、怒りを覚えるのは当然だったと思います。
お母様の病気を通して、ご家族の人生も大きく変わられたわけですね。
実は、コロナのパンデミックが起きる前、僕は息子を連れてロサンゼルスに移住する計画を立て、すでにロサンゼルスに家を準備していました。でも、コロナによって移住が難しくなってしまいました。いま、僕は葉山に家を建てているのですが、完成したらその家で母と一緒に住む予定です。葉山は母が子供のときに住んでいた土地。母も当時のことを覚えているみたいで、母に会うと「いつ葉山の家に引っ越すの?」と聞かれますし、喜んでくれているようです。
葉山は別荘地として知られている土地だけに値段が高く、おいそれと手を出せるようなところではないのですが、たまたま少し背伸びをすれば届くレベルの物件が見つかったんです。僕も50歳を超えて、ローンの審査を通るのも難しいだろうと思っていたのですが、なんと審査が通ってしまって(笑)。
それで、お母様との同居の話が進んだのですね。
実をいうと、鎌倉で母と一緒に生活をしながら介護をしてきたノエルは「同居して、すべてを家族が担うのはストレスが大きい」と考えていて、僕と母の同居に関して歓迎していないようです。しかし僕はノエルと違い、母と一緒に生活をしていないので、つらいと感じる部分を経験していません。また僕の性格上、楽観的に考えているところがあるのかもしれません。
いまの母は、ぱっと見た感じでは十分元気ですし、それほど重い介護が必要な状態でもありません。なので、ヘルパーさんの力を借りつつ、一緒に住むという選択ができると思っています。
でも、将来どうなるかはわからないですよね。母の病状が悪化するかもしれませんし、反対に良くなるかもしれない。いま以上に介護の負担が大きくなった場合、施設に預ける選択を迫られる可能性は十分ありあます。
もちろん、最後まで見届けたいという思いはありますが、母は自立した女性の象徴と言われ、それにプライドを持って生きてきた人。母自身が、姉や僕が最後まで面倒をみることを望んでいないかもしれません。
どこまで介護できるのか。どこから施設も含めたサポートを頼むのか
実際にお母さまを施設へ預けるとなると、施設選びなど、簡単ではありませんよね。
一度、都内の高級介護施設に母を宿泊させたことがありました。ラグジュアリーな雰囲気で、施設自体は問題なかったのですが、そこは90歳を超えるような高齢な方も多くいらっしゃいまして。そうした方々と一緒に大勢で食事をするのが母にとって嫌だったようです。
自分はまだ元気なのに、なんでこんな場所で過ごさないといけないの、となってしまって……。
確かに、施設に預ける選択をする際、本人の考えを無視することはできません。
いまとなっては遅いのですが、病気が発症する以前に「終活」に対する母の考えを聞いておくべきでした。しかし、僕たち姉弟は、このような病気になるなんてまったく考えていませんでしたし、母はいつまでも聡明な母であると思っていました。
しかし、病気が発症した後では、母自身が自分で物事を判断するのは難しい状況です。
介護については、人によって価値観や判断はさまざまだと思います。しかし、自分の生活や心を削ってまで、つきっきりの介護をする必要があるのか、考えてしまいます。
国や民間の介護保険など、制度を活用するのはもちろんですが、金銭的な余裕があれば、施設に預けることを考えるべきではないのか。僕たち3人は、さまざまなことを話し合った結果、母がトイレのサポートまで必要になるレベルに病状が進行したら、そのときは施設に預けようという共通認識を持つに至りました。
母も僕に対しては、無理をしてでも、凛とした母親で居続けたいという気持ちがあるように思います。しかし、たまに会う程度なら頑張れたとしても、ずっと一緒にいるとなると、母は消耗してしまうかもしれない。これも、施設に預ける選択をすべきと考える1つの要因です。
資産の整理や相続で発生した大きな問題
お母様の病気を経験して、ローランドさんご自身のお考えにも変化があったそうですね。
想像もしていなかった母の姿を見て、自分にもいつ何が起きるかわからないと考えるようになりました。
母はアート作品や骨とう品が大好きで、家には大量の作品がありました。姉のノエルは、あふれかえったモノの整理に一番苦労したと思います。ようやく整理がつきまして、いまは母が大好きだった作品を除いて、少しずつ売却しています。
また、大変なのが不動産の処分です。不動産は、何かが起きてから売ろうとすると、すぐには売れなかったり、思っているような値段で売れなかったりします。相続となると高額な相続税が発生しますし、売るに売れない、でも売らないわけにはいかない状況に陥ってしまうかもしれません。アート作品や骨とう品もそうですが、不動産はなるべく早い時期にお金に換えておいたほうがいいと思います。
ローランドさんご自身が、老後のことを考えるようになったということですね。
はい。正直、いままでは自分の老後についてまったく考えていませんでした。しかしいまは、なるべく身の回りのものを整理し、スマートにしておきたいと考えています。
新型コロナも戦争もあって思うのですが、本当にいま、何が起きるかわからない時代を迎えています。私はいま50代半ばですが、いずれは孫も生まれ、おじいちゃんになることでしょう。いつまで仕事を続けるのか、お金はどれくらい必要なのか、どのような終わりを迎えたいのか。それらを真剣に考えるようになりました。
介護も資産運用も、事前の準備や学び、経験が大切
ご自身の経験を通して、世の中の人たちに伝えたいことはありますか?
もちろん、状況は人それぞれなので一概には言えません。とはいえ、当然ですが人は年をとります。年をとれば、程度の違いはあるにせよ、昔は理解できていたことが理解できなくなったり、昔ほど動けなくなったりするでしょう。そうなってから、あれこれ考えて実行しようとしても、スムーズにいかないことが出てくるはずです。
やはり、お金は大事です。残念ながら、日本は相続のほかにも、投資やライフプランニングなどについて、学ぶ機会が少ない国です。つまり、自分で学ぶしかない。ですから、若いうちから資産運用やライフプランについて自分で勉強し、経験を積み重ねておくべきだと思います。僕も資産の整理について、以前から母ときちんと話ができていれば、もっとスムーズに事が運べたのになと、いま、少し後悔しています。
日本は生活インフラがしっかりしていますし、年金や介護保険といったセーフティネットもあります。当然、贅沢な生活をしようとすればお金はかかりますが、普通に生活していく分には、そこまで悲観する必要はないでしょう。
それでも自分の老後に対して不安を抱えてしまうのは、さまざまな問題に対する知識や準備が不足しているからだと思います。まさに、僕がそうでした。
介護にしても資産運用や保険の備えにしても、あるいは自身の老後の生活にしても、きちんと前もって調べ、準備しておけば、それらに対する漠然とした不安はなくなっていくのではないでしょうか。
(取材日:2022年11月28日)
※本記事における内容は全て取材日時点の情報です。
この記事の執筆協力
- 執筆者名
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お話をお聞きした人:桐島ローランドさん
- 執筆者プロフィール
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1968年横浜生まれ。ニューヨーク大学芸術学部・写真科卒業後、フォトグラファーとしてのキャリアをスタート。その後、国内外でファッション広告、CD ジャケット等の様々な写真と映像作品を手がける。2007年にはオートバイで初参戦したパリ・ダカールラリーを完走。現在、サイバーエージェントグループにて、3DCG やAI などの最新テクノロジーを活用した動画コンテンツ制作の中核を担うCyberhuman Productions社の取締役を務める。2022年6月に桐島洋子氏の本格叙伝とあわせ、母への思いをつづった姉・かれん、ノエル両氏との共著による『ペガサスの記憶』を上梓。洋子氏のアルツハイマー型認知症を公表した。
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